言葉だけじゃたりない?!

日本語教師わかばの綴る日常のあれこれ。映画や本について書くことが多いです。たまに旅行記やアウトドアも。

日本語教師の履歴書(あらためましての自己紹介)

今日はこんな記事を見ました。

 

こんばんは。

わかばです。

 

なるほど~と思いながら読みました。

それで、ふとわたしはこのブログで

自己紹介というものをしていないのでは?

と気がつきました。

 

もうこのブログも始めてから3年以上経っているのに!

 

そういうわけで、今日はわたしの日本語教師の履歴書

と題して、わたしがどのようにして、

日本語教師になったかを書き綴りたいと思います。

 

f:id:wakaba78:20190206002354j:image

 

夢みる高校生

わたしは滋賀の田舎で18歳まで育ちました。

インターネットのない時代。

田舎は文化砂漠でした。

 

中学2年生のころ、いとこの家に

スイス人の留学生が遊びに来ていました。

家族に言われ、英語の教科書を持って、

「教えてください!」と遊びに行きました。

そのときから彼女とは文通することになりました。

彼女は田舎しか知らない私に海の向こうの世界を

教えてくれました。(ありきたりだけど)

 

中学3年生のころ、英語の弁論大会がありました。

その代表はなんと!英語の先生の指名制でした。

昔も今も「目立ちたいけど目立たない子」であるわたしは、

もちろん指名されませんでした。

それでもあきらめきれなかったので、

当時話しやすかった先生に頼み込み、

弁論大会に出場させてもらいました。

ジャスティン先生というALTの先生と

毎日放課後練習をして、地区予選は突破。

県大会に進みましたが、あえなく敗退。

しかし、ジャスティン先生との時間は、

わたしを語学の道へ進ませてくれました。

 

高校生になって将来のことを考えるようになりました。

英語の先生という選択肢がありましたが、

なにか違うような気がしました。

それよりも自分はいろんな人に会って、

話したいと思っていました。

その頃始まったのが「ドク」というドラマでした。

「これやーー」

と思いましたが、家族の理解は得られませんでした。

高校のときの担任の先生には

「日本語学科よりも、何かひとつ外国語を」と言われ、

スペイン語を選びました。

英語はもうできる人がいっぱいいたからです。

スペイン語なら、みんなゼロからのスタートだから……

という理由で外国語学部のスペイン語学科に進みました。

 

バイトに留学にとごく普通の大学生活を終えると

社会は超氷河期と言われていました。

 

氷河期となりゆきまかせの就職

 

何社受けても内定などもらえませんでした。

このときは「日本語教師」という選択肢はありませんでした。

ただでさえ、仕事がないのに、

そんな食べていけない職業についてどうするの?

という感じでした。

それを思えば、食べられないけれど、

社会的認知も給料も当時ほどではないのでは?

という気がしています。

 

この頃のわたしの問題は

何をしたいかわからない

社会人とは?働くとは?どういうことなのか

さっぱりわかっていませんでした。

大学の成績も良と可がならぶ底辺の学生でした。

 

高校から大学へ進むように、

大学からどこかの会社へ流れるように

行けるものだと思っていました。

 

甘かったです。

 

心配した父が叔父に頼んでくれて、

当時叔父が働いていた会社に

滑り込むことができました。

 

百貨店の和菓子店に配属になりました。

ここで社会の厳しさを知りました。

人間関係が上手くいかず、

なんと3か月で12キロ痩せました。

 

周囲の計らいもあって、

人間関係はその後、よくなるのですが、

毎日毎日、和菓子を売る毎日……

 

「自分は何をやりたかったんだっけ?」

 

と考えてばかりでした。

イタリアで働くちょっと年上の女性が、

短期アルバイトで来たとき、

話していて羨ましさで死にたくなりました。

 

日本語教師になると決める

 

そのとき、自分の心に浮かんできたのは、

日本語教師という選択肢でした。

 

食べて行けるか?行けないか?

やってみないとわからない!

 

そう思いました。

その時点で社会人1年目だったので、

貯金などありませんでした。

 

わたしは正社員として働きながら、

居酒屋でアルバイトを始めました。

もちろん副業は禁止でした。

アルバイト先はそのこともよくわかってくれました。

居酒屋の厨房は留学生がいっぱいでした。

  

必死で働くこと半年。

引っ越し費用と養成講座のお金の目途がついたので、

和菓子の会社を退職しました。

最後の日の上司の「おまえ、これで先生になれなかったら恥やぞ」

という言葉はわたしを最後まで、

勇気づけてくれました。

 

とりあえず京都のボロアパートで一人暮らしを再開。

夜は養成講座に通い、

昼間は京都の大企業で契約社員になりました。

この時の経験が今ビジネス日本語を教えるうえで

とても役にたっています。

 

また別記事にしたいのですが、

養成講座では幸せな出会いがたくさんありました。

 

養成講座終了後に、わたしは中国に旅立ちました。

未経験では国内で仕事がないと言われていたからです。

まだ20代前半だったし、

教えるなら学習者が多い中国だと思いました。

中国語の勉強も独学とエクスチェンジで始めました。

 

中国でのいろいろはこちらで記事にしています。

 

www.wakaba-nihongo-writer.net

 

そんなわけで日本に帰って来てまずしたことは、

結婚でした。

帰国直後は日本語教師をする気にはなれず、

とんかつ屋でアルバイトをしていました。

そして半年くらいたったころ、

「やっぱりまた教えたいな」と思い始めました。

 

結婚式の前日に履歴書を送りました。

新婚旅行から帰ってくると、

面接に来てくださいと電話があり、

めでたく非常勤講師として採用されました。

 

そこから13年、勤めています。ははは。

しかし、1年ですぐに妊娠してしまいましたので、

産休育休という名の退職をしました。

双子を産んで、しばらくは育児に……と思いましたが、

双子を一人で世話するには精神的にも体力的にも

限界だと思って、双子が一歳になったとき、

双子を保育園に預けて週2で仕事に復帰しました。

といっても保育料が二人で70000円、

わたしの仕事で稼げるお金が40000円で、

明らかに赤字でした。

それでもいつか黒字に転じると信じてやってきました。

 

仕事はすぐに週3、4と増えました。

今は週20コマ以上入っています。

 

今わたしはちょうど40歳です。

30代は本当に日本語教師の仕事と育児で駆けぬけました。

30代も終わろうとする頃、

ブログも書きはじめ、ライターの仕事も始めました。

また、読書会「あきらめ会」もスタートさせました。

今、新しくやろうと思っていることもいくつかあります。

 

わたしはまた岐路に立っていると思います。

 

これからどうなるかわかりませんが、

日本語教師は生き方だとは思いません。

わたしのが携わっている仕事の一つです。

でもこれからもずっと携わっていきたい仕事です。

 

誰かに取材されるような日本語教師の履歴書ではないけれど、

でも、今こうやって書いてみると、

一生懸命やってきたんだなーと

われながらジーンとしています。

 

そして意にそぐわない就職も

OLとしての経験も、

人生に無駄なことはひとつもありませんでした。

 

軽く書き始めたつもりが3000字近い超大作になってしまいました。

間違いなく当ブログ内で一番の大作です。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

www.wakaba-nihongo-writer.net

www.wakaba-nihongo-writer.net

www.wakaba-nihongo-writer.net

 

 

 

スポンサーリンク